D. M. Lloyd-Jones 「山上の説教」 by D. M. Lloyd-Jones (1899-1981)
説教者への召命について
☆☆☆1.「山上の説教」から説教する理由 ☆☆☆
『一般から特殊へと進むことはどんな教えを検討する場合にも賢い方法である。この法則は、「木を見て森を見ず」の危険を避けるための唯一の道でもある。山上の説教を学ぶ場合には、特にこの法則が大切である。したがって、まず始めにこの有名な説教自体について、またキリスト者の生活、思想、見解において、この説教が占める位置について、一般的ないくつかの問いかけが必要なことを知らなければならない。
出発点となるべき最初の問いは、山上の説教について、なぜ考察しなければならないかということである。 山上の説教とその教えに、なぜ注意をしなければならないのであろうか。自分自身の心や感情に生じたことの過程を説明することが、説教者の仕事の一部であるかどうか 私は知らない。しかし神が自分にメッセージを与えてくださったと感じるのでない限り、誰も説教をするべきでないことは明らかである。神の先導と導きを待ち望むことは、聖書を説明したり説教しようとしたりするものの誰もがまずしなければならないことである。それゆえ私が山上の説教について説教しようとする理由は 、根本的にはこの確信、この強制、この聖霊の導きを感じたからである。私はこの点をはっきりとさせておきたい。なぜなら自分の自由な選択に任されていたなら、山上の説教について連続説教ををしようとは考えなかったと思うからである。私は聖霊の強い働きかけを感じるにつれて、山上の説教について説教する特別な理由は、今日のキリスト教会全体のあり方に見られる特殊な状態にあることが明らかになってきた。
今日のキリスト教会のあり方の特徴は、その浅薄さであると言っても決して厳しすぎる判断ではない。この判断は、現代人への観察に基づいているばかりでなく、それ以上に、教会の歴史における過去の世紀や時代の光に照らした現代の観察に基づいている。教会の歴史を読むこと、神の御霊の偉大な働きについて読み返すこと、教会の中に何が起こったかを、時代ごとに観察すること、キリスト者の生活にとって、これらほど有益なことはない。このような背景に照らして、キリストの教会を見るならば、次のような結論に同意せざるを得ないであろう。すなわち今日の教会のあり方の特徴は、先に述べたようにその浅薄さということである。このようにいっても、単に伝道面から見た教会のあり方と活動だけを考えているのではない。浅薄さが最もはっきりとみられるのは、伝道面においてであることは、誰でも同意すると思う。私は現代の伝道活動を過去における教会の 偉大な伝道上の努力との比較対照の点でだけ考えているのではない。確かに今日の教会には、馬鹿騒ぎをしたり、先祖の人々を呆れさせてショックを与えたりするような手段を用いる傾向がある。しかし、私が考えているのは、そういうことばかりではない。きよめや聖化の教理に対する教会の全体的な扱い方についても同様に言えるような、教会のあり方全般を考えているのである。』
序論 その2 に続く
|