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C. S. Lewis

☆☆☆善と悪・・・そして宇宙の意味について (C. S. Lewis)☆☆☆


C. S. Lewis の "Mere Christianity"において、C. S. Lewisは、本能の善悪について議論をすすめることによって、道徳律が本能の一部ではないことを論証していきます。「キリスト教の世界」(CSルイス著・鈴木秀夫訳 大明堂 昭和52年12月10日発行) から引用してみましょう。

『 【本能と道徳律】
 三つ目の見方もあります。もし「道徳律」がわれわれの本能の一部であるとするならぱ、自分自身で、良いと考える衝動が、常に、真の正しい行動と調和しているということを示すことができるはずです。しかし、実際はできません。ある時は「道徳律」がある衝動を抑圧しろと命令し、また、時としてある衝動強め、励ます場合もあります。われわれの内なる衝動のあるもの、たとえば、母性愛、愛国心が善であって、他のもの、たとえば、性欲や闘争本能が悪であると考えるのはまちがっています。闘争本能や性欲が制限されるべき状況が、母性愛や愛国心を制限すべき状況より多いということにすぎません。
【本能に善悪はない】
 結婚したばかりの男性が、性的衝動を高めようとするのが義務であるともいえるのは、戦場における兵士の闘争本能と同じです。反対に、自分の子に対する母の愛情や、祖国に対する愛もまた抑圧されなければ、ほかの子供、あるいは他国に対して不公正なことになるという状況もあるのです。厳密に言うならば、そもそも、良い衝動とか、悪い衝動とかいうものはないのです。
【本能とピアノキー】
 ピアノの例を、もう一度考えてみましょう。ピアノには、良いキーも、悪いキーもないのです。どのキーも、ある状況では善ですが、他の状況では、まちがいなのです。「道徳律」というのも、このように、どれかひとつの本能では、ないのです。それは、いろいろな本能を動かして、全体として善なる調べをかなでさせるものなのです。
【危険性】
 ところで、このことは、現実的に大きな意味を持っています。もっとも危険なことは、自分自身の本能に根ざす衝動のどれかをとり出して、それにいかなる犠牲においても従うべきであると考えてしまうことです。だが、もしそれを唯一絶対なるものと考えてしまったならぱ、それは、われわれを悪魔にしかねないことであるのです。たとえば、「人間愛」というものは、危険のないものと思われるかも知れませんが、実際には違います。「人間愛」の名のもとに、たとえば裁判の場において、共通の了解を破り、事実を歪曲して、正義を保たないとするならぱ、究極的には、残酷な裏切者になってしまうのであります。


CSルイス その5 に続く

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