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C. S. Lewis

☆☆☆善と悪・・・そして宇宙の意味について (C. S. Lewis)☆☆☆


C. S. Lewis の "Mere Christianity"において、C. S. Lewisは、道徳律が親から学んだ社会的慣例ではないか、という反論に対して、交通ルール(右側通行)といったような社会的慣例と、数学を比較することにより、道徳律が、数学と同じように、常に変わらない真理のような範疇のものであることを論証しています。「キリスト教の世界」(CSルイス著・鈴木秀夫訳 大明堂 昭和52年12月10日発行) から引用してみましょう。

『 【社会的慣例と道徳律】
 また、ある方々は、次のような手紙を書いてこられました。「あなたが、『道徳律』と呼ぶものも、結局、教育によって叩き込まれた社会的慣例にすぎないのではないか」。だが、これは誤解であると思います。その問いを発せられた方は、われわれが、両親や教師から学んだことは、人間の作ったものにすぎないと考えておられるようにみえます。
 もちろん、そんなことはありません。たとえば、われわれは、学校で、掛算の九々をならいました。人のいない島に育った子供は九々を知らないでしょう。だからといって、九々が一部の人々の慣用法にすぎず、ほかの人々は別のことを考えたかも知れないということにはなりません。
【道徳律と慣用法との違い】
 われわれが、良き行いのルールを両親や先生方あるいは友人や書物から、ほかのものと同じように学んでいるということは確かです。だが、あるものは、まったくの慣用法、約束です。たとえば、左側通行をしなけれぱならないというたぐいのことがそれで、国によっては、右側でなければならないわけです。でも、あるものは、常に真理です。たとえば数学がそれです。ですから、問題は、「人間の本性の法則」というものが、そのどちらに属するものであるかということです。いまの例でいえば、数学の例に属すると思うのですが、その理由は二つあります。
 第一の理由は、すでに第一章にのべたように、道徳の規律というものが、時と所によって異ってはいるものの、その違いは、想像されるよりはずっと小さいものであって、同じ法則が、そのすべてを貫ぬいていると思えるのに対し、慣習法というものは、たとえば道路規則や服装の規定のように、ずい分大きく変るものであるということです。
 もうひとつの理由は、次の通りです。ある人々と他の人々のモラルが異なっていたとします。その時、一方は他方よりも勝るとか劣るとか、考えるでしょう。また、ある変化が改善であったと考えるでしょう。もしそう考えないとするならば、そもそも、道徳的な進歩というものは、あり得ないわけです。進歩というものは、単なる変化ではなくて、より良い方向へむかつての変化なのです。もし、一群の道徳的考え方が、他よりも勝っていることがないとするならば、野暮なモラルより開化したモラルのほうが良しとし、ナチのモラルよりクリスチャンのモラルのほうを良しとすることはナンセンスになります。実際は、もちろん、あるモラルが他より勝れていると信じています。


CSルイス その6 に続く

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