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C. S. Lewis

☆☆☆善と悪・・・そして宇宙の意味について (C. S. Lewis)☆☆☆


C. S. Lewis の "Mere Christianity"において、C. S. Lewisは、この一連の話の中の結論として、いわゆる自然法、善悪の基準というものがじつざいするものだということを、わかりやすく論証していきます。「キリスト教の世界」(CSルイス著・鈴木秀夫訳 大明堂 昭和52年12月10日発行) から引用してみましょう。

『【標準の実在】
 また、その時代のモラルの概念を変更しようとする人々一一改革者とか、パイオニアと呼ばれる人々がモラルを、他の人よりもよりよく知っているということも信じます。そうです。ある一群のモラルが他よりも勝っているという時に、その二つのモラルをある一つの標準に照らし、それに、近いか否かによって、それらのモラルを計っているのです。二つのものを計るその標準とは、その二つのもののいずれでもありません。われわれは二つのものを、ある「真のモラル」と比較しているのであり、人々がいろいろと考えるのとは別に、真の「善」があるということを前提に持っているのです。それによって、ある人々の考えがその真の「善」により近いか否か比較しているのです。
【NYとモラル】
 こんな風にもいえます。あなたのモラルがより真実であり、ナチのそれがより真実でないというのであれぱ、真実ということについて、なにか、「真のモラル」というべきものが、なけれぱならないことになります。あなたが考えているニューヨークが、私の考えているニューヨークよりも、より正しいと言い得ることは、ニューヨークという所が実在の場所であり、二人の考えているもののいずれでもないということを前提としています。もし、それぞれが「ニューヨーク」といったものが、たんに、「私の心のなかにいだいている町」というだけであったとするならぱ、一方が他方よりも、より正しいイメージか否かということは問題になり得ません。真とか偽とかいうことが、そもそもなくなってしまうわけです。
 同じようにして、もし、「善き行いの法則」というものが、たんに、それぞれの国家が、たまたま是とするものを意味するにすぎないとするならば、ある国家の行為が、他とくらべて善か愚かということを議論する意味がなくなり、そもそも、世界が、道徳的にみて良くならんとしているのか悪くならんとしているのか議論することも無意味になります。
【結論】
 そこで、私は、次のように結論いたします。「善き行い」について、いろいろな考えがあるということは、一見、人間の行為については真の自然法則がないと思わせるようにみえるけれども、実は、その反対のことを示していると思わざるを得ないということであります。
 もうひとつ、おしまいに言っておきたいことがあります。それは、一つの事実を人がどう異なって理解するかということを十分認識しないで、その相異のみを強調する人々に出会うからです。たとえば、「300年前、イギリスでは魔女を殺してしまった。これもあなたのいう人間の本性の法則であり、正しい行為だったのだろうか」と私に問うた方がありました。それはつまり、いま、われわれが魔女を追求しないのは、そもそも、そんなものはいない、と思うようになったからなのです。もし、いると思ったならぱ、もし、ある人々が悪魔に魂を売って、そのみかえりに、隣人を殺したり、気違いにしたり、悪天候をもたらせるような超能力を持った人間がいると、ほんとうに信ずるならば、その行いの故に、彼らに死を宣言することに同意すると思います。だが、道徳の原理は、その間、変っていません。違ったのは、ただ事実の認識だけです。
 魔女というものを信じなくなったのは大きな進歩でした。でも、モラルの変化があったわけではありません。ネズミ捕りを置くのをやめた人がいたとしても、家のなかにネズミがいないことがわかったからであるとすれば、かならずしもその人が慈悲深い人になったということにはならないわけです。


CSルイス その7 に続く

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