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C. S. Lewis

☆☆☆善と悪・・・そして宇宙の意味について (C. S. Lewis)☆☆☆


C. S. Lewis の "Mere Christianity"において、C. S. Lewisは、「善悪の法則」が「自然科学の法則」とどのように違うかを説明することにより、人間の行為の実在とともに、それとは次元の異なった「善悪の法則」の実在について論証しています。「キリスト教の世界」(CSルイス著・鈴木秀夫訳 大明堂 昭和52年12月10日発行) から引用してみましょう。

『 【二つの奇妙なこと】
 第一章の最後のところで、人間について、二つの奇妙なことがあると述べたことにもどってみたいと思います。
  その一つは、人間というものが、フェアプしイなり、品位なり、道徳なり、あるいは、「自然法」と呼ぶところの、実行すべき行為についてのある観念に支配されているということなのですが、
  また、一方では、現実に、そのようにはしていないということです。

【今の議論の目的 事実だけを明白に!】
 このことを、奇妙だと表現したのはどうしてだろうと思われる方がおられるに違いありません。まったく、あたり前のことともみえるでしょう。私が、人間に対して厳しすぎると、お考えになったかも知れません。「善悪の法則」あるいは「自然法」を破るということは、ただ、人間というものが不完全だということを言っているにすぎない、と言われるかも知れません。そしてまた、なぜ人間になにかを期待するのか、ということにもなりましょう。他の人に期待することを自分自身がしていないということについての弁明が目的であれば、そういう言い方は、良い答えであるかも知れません。でも、それはまったく、私のしようとしていることではありません。非難とか弁明とかに関心はありませんただ、事実だけを明白化したいだけです。

【自然(科学)の法則と善悪の法則の違い】
 ところで、そうするとあるべき姿にないが故に、不完全であるという考え方自身がある意味を持ってきます。1個の石か、1本の木をとってみるならば、それはそれなのであって、ほかのものであれというのは意味をなしません。もちろん、もし、庭石にと考えているならば、形が良くないというかも知れませんし、木彫をあまり作っていないといって、良くない木だということがあるかも知れません。でも、それは、たまたま、自分の目的にかなっていないと言っているだけであって、それに文句を言ったとしても誤りにすぎず、非難ではありません。気候や土壌の状態がきまっていれば、ほかのように育ち得なかったということは互に了解しています。ある観点から、「良くない」という木もまた、「良い」木と同じように、自然の法則にしたがっているのです。

 ということが、何を意味するか、おわかりになったでしょうか。われわれが自然の法則と呼んでいるもの・・・たとえば天候が樹木に働く仕方がそれですが・・・、それは、物事の表現方法の一形態にすぎないということであって、厳密な意味で、規則というものではないということです。
 落下する石が、常に重力の法則に従っているというときに、その法則とは、石がどう動くかということを示しているにすぎません。石が放たれた時、その石が突如として、下へ落つべき命令下にあるのを思い出すとは考えません。下へ落ちるということだけです。ただなにが起るかということだけであって、なにが起らねばならないという、事実それ自身以上のことがあるかどうかということではありません。

【善悪の法則を守れない人間】
 木や石にあてはまる自然の諸法則というものは、ただ、自然とはどうなるかを示しているにすぎません。だが、「人間の本性の法則」なり、「善き行いの法則」にもどってみますと、それは違ったものであることがわかります。その法則は、人間というものが現実にそうなってしまうというものでなく、反対に、多くの人々がこの法則を守っておらず、また、だれ一人として、その法則を完全には守っていないものです。
 重力の法則は、石を落としたときに、どうなるかを告げるものですが、「人間の本性の法則」は、人間がなにをなすべきで、なにをなすべきではないかを示すものです。つまり、人間を対象とすると、たんなる事実だけではなく、それを超えるものが問題になってきます。「人がどう行動するか」という事実もあります。それと同時に、「人はどう行動せねばならないか」という、別の面もあります。
 人間以外のことについては、ただ事実があるだけです。電子や分子は、一定の仕方で動き、ある結果が生じます。それがすべてかも知れません。すべてだと断定はできませんが、しかし、人間がある動き方をした時、それはすべてではありません。いつも、人は、違った動き方をするべきだった、ということを思っているからです。

【不都合と悪意のちがい】
 このことは、たいへんに奇妙なことですから説明をしてみたくなります。たとえば、実際の行動ようにはすべきでなかったというときに、石の形がよくないというのと同じであったというかも知れません。つまり、したことが、たまたま、自分にとって不都合であったと考えることです。でも、それは違います。電車の席に、私より先にきて座っている人も、私が立ちあがってうしろを向いた間に座り込んで私の荷物をどけてしまった人も、ともに、私にとって具合よくありません。でも、われわれは、二番目の人は非難をしても、一番目の人は非難しません。また、偶然、私をつまづかせた人にむかっては、(気が落ち着くまでの瞬間は別として、)怒りませんが、意志的につまづかせようとした人にむかっては、たとえ失敗したとしても、怒ります。だが、自分が痛みを感じるのは前の場合であって、後の場合ではありません。

 善くないと思う行為は、往々にして、私にとって不都合でないどころか、その反対でもあります。戦争の時、裏切り者は、反対側にとって、有用な存在です。それを利用し、金も払ってはいるのですが、でも人間の屑あつかいです。ですから、われわれが他人について善き行いと思っているものも、それが、私たちすべてにとって有用なものばかりとは言えないということです。

 また、われわれ自身の善き行いというものが、常に利益になるものであるわけではないということも自明です。それは、3、000円得べかりしときに、300円で満足するとか、ごまかしてもすむ勉強を一所懸命するとか、欲している女性に触れないとか、安全な場所へ避難し得るのに危険のなかにとどまるとか、果したくない約束を守るとか、馬鹿といわれても正直に事実を語るとか、そういうことです。

 ある方々は言われるかも知れません。たしかに善い行いというものは、特定の状況において特定の人に利をもたらせるものではないが、人類全体としてみれば、利をもたらせることであって、なにもそこには神秘的なものはないだろう。結局のところ、すべての人が、フェアプレイをする社会以外には、真の安全や、幸福がない。人々が善き行いをしようとつとめるのは、そのことを知っているからである。

 たしかに、安全や幸福が、個人や階層や国家が正直であり、フェアであり、互に親切であるところから生ずるということは、まったく、その通りです。それは、世界のなかで、もっとも重要な真実の一つといってよいでしょう。だが、われわれが、善や悪をなす時に感ずるものの説明としては、ポイントをはずしています。「どうして利己的であってはならないのか」と尋ねたとしましょう。「それは、社会のためによいからである」と答えるでしょう。「社会のためになるからといって、自分自身のためにならなければ、そんなことに気をかける必要はない」といいます。そうすると、「そんな風に利己的であってはいけないのだ」と出発点にもどってしまいます。

 言っていることは正しいのですが、前には進んでいません。「ラグビーをする要点はどこにあるのか」と尋ねたときに、「ゴールに入って得点を得ることだ」と答えるようなもので、ゴールに入って得点を得るということは、ゲームそのもののことであって、ゲームをする理由ではありません。ラグビーをラグビーと言うのは、間違いではないけれども、なにも言っていることにはなりません。同じようにして、「善き行いをすることの要点はなにか」と尋ねた時に、「社会を益するため」という答えは、よい答えではありません。社会を益すると言った時、社会とは、他者ということにほかなりませんから、それは善き行いの一部であって、「善き行いは、善き行いだ」といっているにすぎません。「人は、利己的であってはならない」といっただけで止まったのと同じです。

 そして、そこが、また私も止まるところなのです人間は利己的であってはならず、フェアーでなければならない。人間は、利己的でないというのでもなく、利己的でないのを欲しているというのでもなく、利己的であってはならないのです。

 「道徳律」あるいは、「人間の本性に関する法則」というものは、重さを持った物体がどう動くかという事実をのべるだけの重力の法則とは違って、人間の行為についての、たんなる記述ではないのです。一方、その法則というものは、空想の産物ではなく、われわれが、それから逃れることのできないものなのです。もし逃れることができたとしたならば、人間についてわれわれが語り、考えることの大部分は、無意味になってしまいます。

 また、自分に都合のよくなるような行動についての記述でもありません。われわれが「良くない」とか、「フェアーでない」という行為が、不都合な行為であるのではなく、むしろ、反対であることもあるからです。

 つまり、「善と悪の法則」、「人間の本性についての法則」、名称はなんでもいいのですが、それは、いずれにしても、実在のものであり、われわれがこしらえ上げたものではない、ということです。そしてまた、われわれの実際の行為が、実在であるという意味においては、その法則は、実在していないのです。ということは、実在ということが、そもそも一種類だけではないと考えさせることになります。いまの例でいえば、人間の行為の事実の上に、なにかある実在があって、それは、われわれが作ったものではなく、そして、われわれに圧力をかけている真の法則なのです。 』

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