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C. S. Lewis

☆☆☆徳目について (C. S. Lewis)☆☆☆


2.4つの基本徳目について

 前節に述べたことは、もっともっと放送のために、短く構成されたことでありました。
 10分間だけ話すということになれば、短くするために、多くのことを犠牲にしなければなりません。航行する艦隊に例えて、道徳を3つに分けたのは、そのためでありました。放送するには長すぎましたが、この主題が昔の人々によってどう分けられていたのか、もう一つの考えについて、理解していただきたいと思います。私は、これは、良い考えだと思っております。
 この、少し長い構成を持った考えによると、徳目には、7つあると言うのです。そのうちの4つは、基本徳目と呼ばれ、あとの3つは神学的徳目と呼ばれています。基本徳目と言うのは、文明の進んだ全ての人々に認められているものですが、神学的徳目と言うのは、一般的には、キリスト教徒だけが知っているものであります。その神学的なものについては、後にお話しすることになるでしょう。
 この段階では、4つの基本的な徳目についてお話をしようと思います。「基本的な」という言葉は、英語で、カーディナルと言いますが、これは、ローマ教会のカーディナル(枢機卿)という言葉とは関係がありません。それは、ラテン語の蝶番から来ている言葉であります。物事の回転の中心と言う意味で、そう呼ばれたのでありますが、その4つとは、「慎み深いこと」、「自制すること」、「正しくはあること」、そして「毅然としていること」であります。
 慎み深い、あるいは慎重であると言う事は、自分が何をしており、それが何を引き起こすかを考える努力を払う、現実的かつ常識的な行為のことであります。

【知的訓練とキリスト教】
 現代では、そのことが徳目の1つであったと考える人はほとんどいないかもしれません。実際、人は幼な子のごとくあって、初めて天国に入ることができるとキリストが言われておられるために、多くのキリスト教徒は、良い人間でありさえすれば、無知であってもかまわないと言う考えを持っています。しかしこれは誤解であります。
 第一に、子供たちも、実際に関心を持っていることに関しては、十分に、慎重であり、非常に敏感にそのことを考えているということであります。   第二に、聖パウロが指摘したように、キリストは、知恵において、子供にとどまって良いと言う事は決して話された事はなく、反対に、「鳩のように平和に、蛇のごとく賢く」あることを語られているのです。キリストは、子供のような心と、大人の頭脳を欲せられています。我々が子供のように純粋であり、単純で、感受性が強く、教えを吸収することを欲しておられます。だが同時に、仕事においては、隅々まで知性を働かせ、第一級の仕上げを欲してもおられるのです。ある慈善にお金を捧げる場合に、その慈善というのが、詐欺であるかどうか確認しないでも良い、ということではありません。
 例えばお祈りをしているときなどに、今自分の考えているものが神そのものであるとしても、5歳の子供の時に考えていた考えと同じであっていいということではありません。もちろん、第一級ならざる頭脳をもって生まれた人を神があまり愛さないとか、大切と思わないとかいう事はないでしょう。感受性の豊かでない人々についても、神は開かれていますが、与えられた感受性だけは十分に使うことを望んでおられるのです。
 「よい子でありさにすればよい、利発な事は利発な子にまかせておこうよ」と言うのではなく、「よい子でありなさい、だが、その事は、できるだけ利発であるということを含むことを忘れてはいけない」というべきなのです。
 神は怠け者を好まれませんが、なににもまして、知性を怠けさせている者を好まれません。もし、あなたがクリスチャンになることを考えておられるならば、1つだけ警告しておきたいことがあります。それは、あなたの頭脳もその他の全てをもとらえてしまうなにものかに、取り組もうとしているということです。
 でも、幸いなことに、別の効果もあるのです。誰でも真面目にクリスチャンになろうと努力する人は、まもなく自分の知性が磨かれてくるのを見いだすでしょう。クリスチャンになるのに、特別な教育を要しない一つの理由は、キリスト信仰自身が、教育であることによっています。バンヤンのように教育のない信徒が、世界を驚かす書物を書くことができたのは、その故なのです。

【自制すること(temperance)の意味】
 自制すること(temperance)は、残念なことに、意味が変わってしまったことばの1つであります。今では、それは、英語では禁酒主義を意味することになってしまっています。だが、この徳目が「自制」を意味していたころには、そういうことを意味してはおりませんでした。自制とは、飲むことについてだけではなく、すべての快楽について語られたのではありますが、それは禁欲を命ずることではなく、適度に行うことを示したもので、それ以上の事ではなかったのです。
 キリスト教徒がみんな禁酒主義でなければならないと考えるのは間違いです。イスラム教は、禁酒主義ですが、キリスト教は、そうではありません。もちろん、特定なクリスチャンが特定の状況において、強い酒を飲むことを控えるのが義務である場合もあります。全く飲めない人である場合もそうですし、貧しい人にお金はあげるためということもありましょう。また、深酔いしがちな人がそばにいるときに、自分が飲んで、その人を刺激することがないようにということもあるでしょう。でもその場合問題なのは、悪いものと思っているわけではなく、また、他人がたしなむのも喜んではいても、良い理由のために止めているということです。
 あまりよろしからぬ人々に関する1つの特徴は、自分が何かを止めるのに、他人にも止めさせてしまわずにはいられないということです。これはキリスト教の仕方ではありません。クリスチャンの中には、それそれぞれの理由によって、結婚なり、肉食なり、ビールもなり、映画なりを止めることが良いと考えることがあります。だが、それらのものが、それ自身悪いといったり、それらを楽しんでいる人々を見下し始めたりした瞬間、道を誤ることになります。
 自制(temperance)という言葉を、飲酒に限定して用いるようになったことについて、一つの大きな悪い影響があります。そう限定してしまったことによって、ほかの多くのことについて不節制であることを忘れさせてしまったのです。ゴルフや自動車が生活の中心になっている男性や、衣装や、ブリッジや、愛犬にすべてをささげる女性というのは、毎晩酔いしれてしまう人々と同じように、不節制なのです。もちろん、外面には容易に現れません。ブリッジマニヤやゴルフマニヤが、道の真ん中に寝転んでしまうということはないでしょう。しかしながら、神は、外面によってあざむかれることはありません。
 正義ということについても、法廷におけるもの以上のことを意味しております。それは、われわれが、「フェアー」と呼んでいるすべてのこと、すなわち、正直、ギブアンドテイク、信頼、約束を守ること、等々、生活におけるさまざまなことの総称を示す。昔からの名称であります。「毅然としていること」は危険に立ち向かう勇気と、苦痛のもとにあっても我慢をすることでもあります。「ガッツ」というのが、たぶん、それに一番近いいまの英語でしょう。これを働かせなければ、ほかの徳目も長く持続出来ないことがおわかりと思います。

【自制行為と自制的な人】
 徳目について、注意すべき点もう一つの点があります。それは、ある特別な正義なり自制的な行為をすることと、正しい、自制的な人であることとの間には、違いがあるということです。上手なテニスプレイヤーでなくとも、時々は、うまいショットをすることがあります。上手なプレイヤーと言われるのは、目も筋肉も神経も、無数の良いショットを打つことができるように訓練されていて、常に信頼のおける人なのです。そういう人々は、プレーをしていないときでも、何かある資質が感ぜられるのであり、それはたとえば、数学者の頭脳が、数学をしていないときでも、何かある傾向を示し、外観を持っているのと同じです。同じようにして、正しいことを行うおうと努力している人は、おしまいには、ある性格のクォリティーを持つようになります。徳行について語るとき、一つ一つの行為ではなく、このクォリティーについて語っているのです。
 この区別と言うのは、次のような理由によって重要です。もし、特定の行為についてだけ考えるのであれば、3つの間違った考えを助長してしまうからです。
1)もし良いことをしてしたとしても、それを喜んでやったのか、そうでないのか、むっつりとしてやったのか、ニコニコとやったのか、世論をおそれてやったのか、それ自身のためにやったのか、こういう違いが、どうでも良いように思ってしまうかもしれません。しかし、事実としては、悪い理由によってなされた良い行為は、本当に重要な内なるクォリティーなり、「徳」と呼べる性格を作る助けにはなりません。下手なテニスプレーヤーが、必要に応じてではなく、自制を失って、強い球を打ち、それでたまたまゲームを勝つことができたとしても、信頼できるプレーヤーと呼ばれることにはならないのと同様です。
2) 神は、一連の規律の服従を欲すると思うかもしれません。しかし、そうではなくて、特別な種類の人間を望んでおられるのです。
3) 「徳行」と言うものは、現在の生活においてのみ必要であって、別の世では、争いもないから、正しくある必要もなく、危険もないから勇敢である必要もないと思われるかもしれません。次の世において、正しく、勇気ある行為が多分必要でないという事は、全く正しいでしょう。しかし、この世においては、このような行いをすることの結果としてのみ、そういう人になる機会があるのです。神は、その種のクォリティーを持たない人を、永遠の世界に入れるのを拒むだろう、というところに問題点があるのではありません。少なくともこれらのクォリティーの始まりの部分を自分の内側に持つのでなければ、外的な条件はその人に、天国をもたらさないであろう、すなわち、深く強く、ゆるぎない神の与える幸福を幸いと感ずることがないであろう、ということです。


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