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D. M. Lloyd-Jones 「山上の説教」 by D. M. Lloyd-Jones (1899-1981)

序論

☆☆☆2.聖書を読み込む危険 ☆☆☆


『 重要なことはこの浅薄さの原因の発見である。私自身は、このことの原因は、聖書に対する人々の態度にあると考えている。聖書を真剣に取り上げないこと、聖書をありのままに取り上げないこと、聖書が語りかけるのを受け付けないことなどである。これと切り離せないことは、極端から極端に走るという人間の傾向である。しかし、 なんといっても見逃せないことは、聖書に対する私達自身の態度である。この意味を、もう少し詳しく説明しよう。
 キリスト者の生活にとって最も重要なことは、聖書に対する近づき方と読み方とである。聖書は、私たちの教科書であり、唯一の根拠である。聖書はさらに、私たちの唯一の権威でもある。聖書を離れては神についても、キリスト者の生活についても、本当の意味で何も知ることができない。自然界から 種々の推論を引き出すことはできるーーーおそらく、さまざまの神秘的体験からも引き出せるであろうーーーし、それによって、超越的な創造者への一つの信仰に到達することも可能である。しかし、この聖書の他には、権威はない。このことは、キリスト者のほとんどが同意することであり、教会の歴史を通しても常に主張されてきたところである。私たちは、主観的経験だけに頼ることは出来ない。何故なら良い霊とともに悪霊もあり、にせの経験もあるからである。聖書にのみ唯一の権威がある。
 この聖書に正しい態度を持って近づくことが、確かに大切である。まず私たちはただ聖書を読むだけでは十分ではない。機械的な態度で読んだために、聖書から何の益も得ないということがしばしばある。それゆえ私は、霊的生活における訓練に関しては、どんな種類の規則や取り決めをするにも、十分に注意をしなければならないと考えている。毎日聖書を読むのは良いことである。けれども毎日聖書を読んでいると言えるためにだけそうしているのなら、全然益にはならない。聖書を計画的に読むことを強く推奨する。しかし聖書通読の 計画表を用いても、その日の箇所を読んだだけで、それについて考えたり黙想したりせずに、御言葉から離れてしまって、満足しているということのないように注意しなければならない。これでは全然益を得ることはできない。どのように聖書に近づくかということは、極めて重要な問題なのである。
 聖書はそのことを語っている。使徒ペテロが、使徒パウロについて述べた有名な論評を覚えているであろう。ペテロはパウロの手紙の中には、「分かりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、・・・自分の滅亡を招いている」(2ペテロ3-16)と言っている。人々は確かにパウロの手紙を読む。しかし、彼らは、それを曲解し、こじつけて解釈して、自分の滅亡を招いているとペテロは言うのである。パウロの手紙を読んでも、自分勝手に意味を読み込み、自分の滅亡を招く。その為に、読み終わっても、読み始めた時よりも少しも賢くなっていない場合が多い。このことは聖書全体についても常に心に留めていなければならない。聖書を開き、み言葉を読み、その章全体を読み通す。それなのに、目の前のページに書いてあることとは全く異なった結論を引き出している場合さえある。
 このような危険に陥るのは、私たちに自分の意見を持って聖書に近づく傾向があるからである。自分の意見を持って聖書に近づくために、読むことがみなそれに支配されてしまう。しばしばこういう経験をすることがある。自分の思ったことは、何でも聖書から証明できるとも言える。このようにして数々の異端がおこってきた。異端者は、必ずしも不誠実な人ではなかった。彼らは誤りをした人なのである。彼らを、故意に誤りの道に行き、誤りを教え、説く人であるかのように考えてはならない。彼らは教会の歴史において真面目な人物と数えられる人である。問題はどこにあるのであろうか。それは次のような点である。
 つまり彼らは、ある見解を展開させた。もちろん彼らは、それが気に入っていた。そこで彼らは、この見解を持って聖書に立ち返った。そして彼らは聖書の至る所で、自分と同じ考えを発見するように思ったのである。私たちも聖書の中のある節を半分ほど読み、他の節を半分ほどを過度に集中して読むならば、私たちの意見は、たちどころに証明されるであろう。この点について十分に注意しなければならない。 自分の見方や先入観を持って、あるいは、自分の気に入った考えを持って聖書を読むことほど危険なことはない。もしそうするならば、聖書のある一面を強調し、他の面を軽視すると誘惑に出会うからである。』

序論 その3 に続く

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