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D. M. Lloyd-Jones 「山上の説教」 by D. M. Lloyd-Jones (1899-1981)

序論

☆☆☆3.律法と恵みの関係 ☆☆☆


『 ところでこの特別な危険性は、主として律法と恵みの関係においてみられる。このことは教会において初めから事実であったし、今日でもやはり事実である。ある人は、律法を強調するあまり、イエスキリストの福音を、その輝かしい自由とともに、たんなる道徳的格言集に変えてしまう。彼にとっては、福音も律法であって恵みは残されていない。彼らはキリスト者の生活を、人がキリスト者となるために守るべき事柄であるかのように語るそのために、全くの律法主義となって、そこには恵みの残る余地がない。他方、律法を無視して恵みを強調しすぎるあまり、新約聖書の福音とは別のものを作り上げる可能性もある。
 この典型的な例を挙げてみよう。使徒パウロは絶えずこの困難に直面しなければならなかった。恵みを力強く強調して説いたパウロほど、誤解を受けた人はいない。ローマやその他のところで、人々のした推論を思い起こしていただきたい。「このパウロと言う男が教えるのだから、恵みが増すために、悪いことをしようではないか。このを教えによると、こういう結論になることが確かなのだから。たった今パウロは、『恵みの増し加わったところには、恵も益々満ち溢れた』(ローマ5-20)と語った。だからもっと『恵みが増し加わるために、罪にとどまろう』(参照ローマ6-1)これに対してパウロは、「断じてそうではない」(ローマ6-2)と言っている。パウロは、絶えずこう言い続けなければならなかった。恵みのもとにあるのだから、私たちは律法と全然関係がなく、律法を無視してもよいというのは、聖書の教えではない。たしかに私たちは、現在律法のもとにではなく、恵みのもとにいる。しかしこのことは律法を守る必要がないということではない。私たちは律法が罪に定めるという意味で、律法のもとにいるのではない。律法はもはや私たちに、有罪の宣告や判決を言い渡すことはない。しかし私達は律法を実行するように求められている。そればかりか、 律法の要求以上にすることさえ求められているのである。使徒パウロの論旨は、私たちが律法のもとにあるものとしてではなく、キリストのものである自由人として生きるべきだということである。キリストは、日本を守り実行した。山上の説教が強調しているように、私たちの義は、律法学者やパリサイ人の義にまさらなければならない。事実、キリストは律法を廃するために来たのではない。律法の一点一画までも成就し、完遂するために来たのである。(参照マタイ5:17-20)律法と恵みとを対立した関係に 置こうとするあまり、この点を忘れてしまうことが多い。その結果、しばしば律法の全てを。完全に無視してしまうのである。
 多くの人の行動を見ると、彼らの恵みについての教理は主イエスキリストの明白な教えを真面目に取り上げていないように見える。全ては恵みによるのであって、キリスト者になるためにキリストの模範に習おうとするべきではないという教えを強調しすぎて、キリストの教えを無視し、律法とは無関係だというような立場に立っているのである。いったい私たちは、主であり救い主であるイエスキリストの福音を、どれほど真剣に受け取っているであろうか。この問題に注意を集中する最上の方法は、山上の説教を直視することである。私たちはこの説教をどう見ているのであろうか。ここで次のような質問に対して、どう答えるかを紙に書いて見ようと提案したとする。山上の説教は自分にどういう意味を持っているか。自分の生活のどの部分に入ってくるか。自分の考え方や見方のどこに位置を占めているか。マタイによる福音書5章から7章までの重要な位置にあるこの説教は、自分とどんな関係があるか。これらの質問に答えてみると、その結果は実に興味 深く、驚くべきものであることに気づくであろう。私たちは確かに恵と赦しの教理をよく知っており、キリストに頼っている。しかしながら、私たちが権威があると主張しているこの聖書の中に、山上の説教も置かれているのである。それでは、この説教は、私達の体系のどこに位置を占めているのであろうか。』

序論 その4 に続く

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