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D. M. Lloyd-Jones 「山上の説教」 by D. M. Lloyd-Jones (1899-1981)

序論

☆☆☆4.「山上の説教」への見解 ☆☆☆


『 以上が、背景および序論として述べたかったことである。ここでもう一歩前進して、もう一つの大切な問題を取り上げてみよう。山上の説教は誰に向けて語られているのか。誰に適用されるのか。この説教の目的は何か。何と関連があるのか。こういう問題には、相互に対立する多くの意見が出されてきた。以前、山上の説教に関するいわゆる「社会的福音」の立場からの見解というものがあった。それによればこの説教は、実は、新約聖書の中 唯一の重要な意義を持つ教えということになる。この中にはいわゆる社会的福音の根拠がある。人の生活するべき原則も定められている。私たちの必要とするすべては、この山上の説教を自分に適用することである。
 そうすることによって、神の国を地上に作り出すことができる。その時、戦争は駆逐され、全ての問題は終わりを告げるであろう。これが典型的な社会的福音の見解である。これに対する反論に時間を費やす必要はない。これは、すでに時代遅れとなってしまった。これは30年も前の考え方の名残であり、遺物なのである。再度の世界対戦は、この見解を根底から揺り動かした。私たちは神学におけるバルト的動向の多くの面に批判の目を向ける。しかしバルト神学が一撃のもとに、社会的福音を全く愚かに見えるようにしてくれたという点では、賛辞を惜しまない。山上の説教についての社会的福音の見解に対する真の解答は、その見解が幸福の教えーーーこの説教のはじめにある「心の貧しい人たちは幸いである」、「悲しんでいる人たちは幸いである」という言葉ーーーを無視してきたこと言うことである。のちに解き明かしたいと思っているが、これらの言葉の意味は、自分の力だけで、何の助けも受けないで、山上の説教の生活をすることは誰にもできないということである。社会的福音を唱える人たちは、幸福の教えを無視して、一足飛びに細かい命令へと突進し「これが福音だ」と言うのである。

 真剣に考える価値があると思われる見解に、山上の説教をモーセ律法の仕上げ、或いは解決であるとするものがある。それによると次のようになる。パリサイ人、律法学者、その他の民の教師等がモーセを通して、神から与えられた律法を誤って解釈していることを、主イエスは知っていた。そこでイエスは、山上の説教において、モーセの律法の仕上げをし、その真義を解説し、より高い霊的内容を与えているというのである。これは先に述べた見解よりも、確かに重要である。しかしこの見解も、幸福の教えを考慮に入れていないとすれば、その理由だけでも、不十分な見解であると言えよう。幸福の教えは、モーセの律法を完全に超えたある領域へと、瞬時に私たちを伴って行く。確かに山上の説教は、ある個所では律法の仕上げをし、これを説明している。だがそれを越えて。その先へも進んでいるのである。

 次に取り上げる見解は、山上の説教についてのディスペンセーション的見解と呼べるものである。おそらくあなたがたの多くは、この見解をご存知だと思う。この見解は、ある種の聖書を通して、一般に広められていた。(私はある種の聖書などという形容語は決して好きではない。ただ一つの聖書があるだけだから。しかし不幸にして誰々の聖書について語りがちである。)このようにして、一般に広がったいくつかの教えが、山上の説教についてのディスペンセーション的見解を示している。これによれば、山上の説教は現代のキリスト者と何の関係もないことになる。主イエスは、神の国について説教し始めた。山上の説教はこの神の国の正式な開始と関連して語られたものである。ところが不幸にして、ユダヤ人は主イエスの説教を信じなかったために主は神の国を設立することができなかった。そこで一種の事後の思いつきのようにして、十字架の死が持ち込まれてきた。もう一つの事後の思いつきとしては、全教会と全教会時代が持ち込まれた。これは歴史上のある地点まで続くであろう。その後主は、王国とともに再臨し、ふたたび山上の説教が持ち出される。以上がその教えである。要するに山上の説教は、私たちとは関係がなく、王国時代のためのものと言うのである。それは、イエスの説教を聞いていた人々のためであり、またふたたび千年王国 時代に意味を持つようになる。過ぎ去ったイエスの時代と、将来きたるべき天国との法則であって、その中間時代にいる今日のキリスト者とは何の関係もないと言うのである。』

注)ディスペンセーション主義:ディスペンセーション主義(Dispensation, Despensationalism)神の人類に対する取り扱いの歴史(救済史)が、七つの時期に分割されるとする神学。この名称の由来は、救済史における一連の「dispensation(経綸、天啓法)」(ギリシア語oikonomiaに由来する。)についての理解から来ている。契約時期分割主義、天啓史観、経綸主義とも言われる。ディスペンセーションと対極をなす見解に契約神学がある。

ディスペンセーション神学が主張する、七つの契約時期
1.無垢の時代
  天地創造からアダムとエバのエデンの園追放までの時代。
2.良心の時代
  創世記3章7節から8章19節までの洪水の前までの時代。
3.人間による統治の時代
  洪水後から、神が人間を地の前面に散らされるまでの時代。
4.約束の時代
  アブラハムの召しから、モーセに律法が与えられた時までの時代。
5.律法の時代
  モーセの律法が与えられた時から、ペンテコステのまでの時代。
6.恵みの時代
  キリストの死と復活から始まって、現在も継続しており、携挙で終わる時代。
7.御国の時代
  キリストの再臨をもって始まる時代、地上における人間生活最後の千年間の時代。

注)契約神学は、全歴史を通じた神と人間の交流、すなわち創造・堕落・救済・終末を、「贖いの契約」「行いの契約」「恵みの契約」と呼ばれる三種の契約の枠組みで捉える。これらの契約は聖書に直接記述されたものではなく解釈を通じて了解されることから神学的契約と呼ばれ、その立場は契約神学と呼ばれる。
神学的契約
(1) 行いの契約
神は最初の人アダムを代表者として人類と「行いの契約」を結ばれた。エデンの園におけるアダムは安定した永遠のいのちを持っていたのでなく、善行によって永遠のいのちを獲得すべき者とされていた。
(2)贖いの契約
堕落した人を救うために、父と御子の間に立てられた契約を、贖いの契約という。この契約において、御子は、選びの民の、代表者になられて、アダムが失敗した「行いの契約」を全うされる。
(3)恵みの契約
神は父と御子との間に立てられた贖いの契約を土台として、選びの民を救うために恵みの契約を結ばれる。

序論 その5 に続く

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