D. M. Lloyd-Jones 「山上の説教」 by D. M. Lloyd-Jones (1899-1981)
序論
☆☆☆6.「山上の説教」の目的と本質 ☆☆☆
『 従って、山上の説教は現代のキリスト者と関係がないと説くくらい危険なことはない。山上の説教はすべてのキリスト者に語られていると私は力説したい。これは神の国の生活の完全な描写である。マタイが山上の説教を、その福音書のはじめに置いた理由がここにある。私はこのことに少しの疑いも抱かない。マタイはその福音書を主としてユダヤ人のために書いたことに、意見は一致している。彼の目的はここにあった。その故に、天国がこんなにも強調されているのである。マタイは、天国について何を強調しようとつとめていたのであろうか。それは、確かに次のことである。ユダヤ人は、御国について誤った物質的な考え方をしていた。彼らはメシヤは自分たちに政治的な解放を与えるためにくる方であると考えていた。彼らは自分たちをローマ帝国のなめと拘束から解放してくれる方を待望していた。彼らはいつでも、御国を外部的な意味に、機械的で物質的な意味に考えていた。そこでマタイは、御国についての真の教えを、その福音書 の冒頭においたのである。なぜなら、この山上の説教の目的は、本質的に霊的なものとしての御国について、説明を与えることにあるからである。第一に御国は、「あなたがたのただ中に」ルカ17-21あるものである。それは人の心と精神とものの見方を、統治し支配するものである。一大軍事勢力どころか、「心の貧しい」ことなのである。言い換えるならば、山上の説教は、「このようにしなさい。そうすればキリスト者になれる」と言っているのではない。むしろ、「あなたはキリスト者なのであるから、このように生きなさい」と言っているのである。これは、キリスト者の生きるべき道であり、キリスト者が生きるように定められた道である。
この部分の論議を完結する前に、もう一つも困難に直面しなければならない。ある人は言う。「確かに山上の説教は、他の人をゆるす場合にのみ、私たちも罪のゆるしを得られると教えているではないか。主はこう言わなかったであろうか。『もし人をゆるさないならばあなたがたの父も、あなた方の過ちをゆるしてくださらないであろう』マタイ6-15これは律法ではないのか。この中のどこにめぐみがあるのか。ゆるさないならばゆるされないと言うのは、めぐみではないではないか」こう言うと、山上の説教が 私たちに適用されないことの証明の様に見える。しかし真にこういうためには、キリストの教えのほとんど全部を、福音の外に出してしまうなければならないことになる。主イエスはこれと全く同じことを、例えを用いて教えている。これはマタイによる福音書18章にある主人の権利を侵した家令の話である。この男は主人のもとにいってゆるしを哀願した。主人は彼をゆるしてやった。ところが彼は自分に負債がある仲間をゆるさなかった。その結果、主人はゆるしを撤回し、彼を処罰した。これについて主イエスは、次のように注釈をしている。あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、私の天の父もまたあなたがたに対してそのようになさるであろう。マタイ18-35これは、自分がゆるしたと言う理由によってのみ、ゆるされると教えているのであろうか。そうではない。この教えは、もし自分がゆるさないなら、自分はゆるさ れていないという意味である。これは次のように説明できる。自分が神の前に罪を犯した罪人であることを知っている人は、天国に行かれる唯一の希望の根拠は、神がすでに御旨によって自分をゆるしてくださっている事実にあることを知っている。この事を真に悟り、認め、信じている人は、他人をゆるさないではいられない。他人をゆるさない人は、自分自身ゆるしを知らない。心が神の前に砕かれているならば、その人は他人をゆるすことを拒めない。自分は他人を全然ゆるさないのに、自分罪はキリストによってゆるされるべきだと愚かにも想像している人には、次のように言いたい。「気をつけなさい。友よ。永遠の家に目覚めた時に、『あなたがたを全く知らない。行ってしまえ。』マタイ7-23 と主イエスキリストに言われることのないように。」こういう人は、神の恵みの輝かしいこの教理を、誤解しているのである。真にゆるされ、その事実を知っている人は、ゆるす人である。これが、ゆるしという点について、山上の説教が言おうとしていることである。』
序論 その7 に続く
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